写真:結婚式でのラモンとフィロ(2004年)
一昨日の早朝6時、携帯が鳴った。深夜や早朝の電話があるといつもいやな予感がするが、今回は、その嫌な予感が的中してしまった。私たち夫婦の親友、ラモン・デ・アルヘシラスさんが亡くなった、との連絡だった。
ラモン・デ・アルヘシラス、本名ラモン・サンチェス・ゴメス。パコ・デ・ルシアの兄でありギタリストの彼は、長年パコのツアーにも同行していた。私が彼と知り合ったのも、1998年のパコ・デ・ルシアの日本ツアーの時。以来、家族ぐるみの付き合いをさせてもらっていた。ラモンは、自称「フアンとマリコの愛のキューピット」。未熟な私たち夫婦の悩みを色々聞いてくれ、いつも親身になってアドバイスしてくれ、奥さんのフィロと共に、私たちの結婚の保証人になってもくれた。
彼が末期の肺がんに冒されていることが分かったのは、昨年5月のことだった。自分の病名が癌であることを知っても、彼は気丈な態度を貫いた。「マリコ、人生はね、早いうちに楽しんでおかなきゃだめだよ」それが、ここ半年の彼の口癖だった。
連絡を受けてすぐにフアンさんがパコに電話をした。きっと落ち込んでいるに違いない。電話にでたパコは、憔悴しきっていた。前の晩に緊急入院したラモンと面会したばかりだったと言う。すぐ迎えにいくから、と電話を切った。
マドリードのパコの家に着くと、パコはひとりソファーに座っていた。私たちを見ると、おもむろに立ち上がり、無言のまま私たちときつい包容を交わした。こんなパコを見るのは初めてだった。無表情。悲しさや寂しさの極限で、人は無表情になってしまうのかもしれない。ラモンが肺がんと知り、余命があと半年と聞かされ、覚悟はしていたはずなのに、誰もが口をきけない程のショックに苛まれていた。
やがて、意を決してマドリード郊外のタナトリオ(斎場)に向かった。スペインでは、誰かが亡くなると、まずご遺体をタナトリオに移す。タナトリオに行くということは、ラモンのご遺体と対面することを意味する。通常タナトリオの建物は大きく、一度に数名から数十名のご遺体を収容できるようになっている。それぞれのご遺体(ご家族)ごとに独立したサロンがあり、そのサロンの中にあるガラス張りの部屋のなかに、ご遺体は棺桶に入れられて安置され、通夜への訪問者は、ガラス越しに、ご遺体と最後のお別れをする。
ラモンのご遺体が安置されているサロンに着いて、ガラス越しにラモンと対面した時、我が目を疑った。享年71才とは思えない、年老いてやつれたラモンの姿がそこにあった。癌という病気は、恐ろしい。私の知っているラモンの姿は、そこにはなかった。涙があふれた。これまでに一緒に過ごした思い出が走馬灯のように蘇った。
初めて出会った日本で、秋葉原を案内しようか?と言ったら、電化製品より手動の鉛筆削が欲しいと言ったラモン。会う度に新しいチステ(小話)で私を笑わせようとしたラモン。フアンさんとケンカして泣いている私を励ましてくれたラモン。私の天ぷらを世界一だと褒めてくれたラモン。はやく私たちの子供が見たいと楽しみにしていてくれたラモン。そんなラモンがもういないのだということが、どうしても信じがたかった。
フィロはガラスの前で、泣き崩れていた。私たちをみると、また一層声をあげて、泣いた。いつも彼のそばで、彼を支えて来た。ラモンの闘病生活を一緒に走り抜けて来た彼女もまた、一層やせて、小さく見えた。「マリコ、ああ、マリコ、私はこれからいったいどうしたらいいの?」泣き叫びながら問いかける彼女に、私は答える術がなかった。
その夜は、一晩中フィロや家族たちと一緒にタナトリオで過ごした。そして夜が明け、本当の別れがやってきた。スペインでは土葬が一般的だが、本人の生前からの希望で彼のご遺体は火葬されることになっている。ガラス張りの部屋からご遺体が別の小部屋に移され、火葬炉へ送られる前に親しい人たちのみで、最後の、本当に最後のお別れをする。フアンさんと私もラモンに最後の包容をし、やさしく頭をなでた。さようならラモン。安らかに。