写真:両親、フアンさんとハワイにて
先週、父が67回目の誕生日を迎えた。私がスペインに住むようになってから、誕生日には電話を掛け合うのが小倉家の習慣になっているので、今年も誕生日に父の携帯に電話をしたが、電源が切れていた。
それじゃ、ってことでメールを書いた。SKYPEなどが普及したおかげで、最近は日本との連絡も安く、スピーディーに、しかも頻繁にできるようになった。でも、まだ現役で仕事を続ける両親の朝はかなり早く、夜も早く就寝するから、8時間の時差が大きな壁になってなかなか電話のタイミングがつかめない。気づいてみると、もう3週間位両親と話をしていなかった。
そんなわけで、いざメールを書きはじめてみると、知らせたいことや話したいことがたくさんあって、書き終わってみると、誕生日のお祝いなんだか、近況を綴った報告書なのかよく分からないものが出来上がってしまった。でも、まぁ「元気でやってるよ」とひとこと言うより詳細を読んでもらった方がよく状況が伝わるし。送信ボタンを押した。
しかし、それから一向に返事がこなかった。
若い頃はパソコンも携帯もなかった親の世代。父が初めて私にメールをくれた日のことを、今でもはっきり覚えている。「げんきですか?」とひらがなで。たった5文字。私がメールを開くより先に当時まだ高額だった国際電話で「おい、今メール送ったぞ、みたか?」とやや興奮気味な父の声が電話越しに響いた。その両親が今はSKYPEを使いこなして電話をくれる。メールもすぐに返事が来る。私のBlackBerryが日本語に対応していないのもちゃんと知っていて、急ぎの時は英語でメールをくれる。最新兵器を使いこなす、そんな父がちょっと誇らしい。
しかし、メールに返事が来ないまま1週間が過ぎようとしていた。
もう一度、メールを送ってみるか。とメールソフトを立ち上げた瞬間、携帯が鳴った。見慣れない国番号「+66」からの国際電話。どこの国だろう?アジア?念のため仕事モードに切り替え、英語で対応。ハロゥ?すると電話の向こうからは父の声。「おぉ、お父さんだ。元気かぁ?」『元気だよ、今どこにいるの?』「今?今はタイのバンコクに着いたところだ。誕生日のメールありがとな。いやぁ、実はメールもらった時にはミャンマーにいてさぁ。あの国はインターネットの利用が制限されてて、携帯も使えない状況だったんだよ。わりぃ、わりぃ。」
そうだ、父は出張中だった。約2週間、タイ、ミャンマー、カンボジアを訪れ明後日、日本に帰る予定。67歳とは思えない行動力で、まだ現役で頑張っている。「それより今回のメールな、誤字脱字が相当多かったぞ。漢字の変換ミスもあったし。でも、まぁ元気そうでなによりだ」間髪入れずダメだし。
子供の頃は、父に追いつけ追い越せ、と自分を叱咤して来た。父の背中に憧れて、絶対に外交官になろうと一生懸命勉強もした。が、大学でフラメンコに出会い、道が反れ、父とは反目しあった時期もあった。反抗して、家出して、東京で一人暮らしをはじめたのもこの頃だった。しかし、もう修復しようもないかの様に思えた大きな溝さえ、父はゆっくりと取り払ってくれた。外交官になる道を諦め、スペインに留学し、スペイン人と結婚することも「おまえが決めることだから」と理解を示してくれた。
写真:両親、フアンさんとスペインにて
私の結婚後「フアンさんと、お前の通訳なしで話したいからな」と言って、父は上智大学のオープンカレッジでスペイン語を学びはじめた。もう数年通っている。出された宿題の難しいところがあると、メールや電話で私に質問してくる。娘に対しても、分からないことは素直に聞ける姿勢。それが父の偉いところだと私は思う。その甲斐あって、今では父とフアンさんを二人きりにしても、長々と尽きることなく話をしている。はっきりいって、スゴイ。
ニューヨークのカーネギーホールでカニサレスのコンサートがあった時も、真冬の寒い時期、家族や親戚を連れて、わざわざ日本から観に来てくれた。再来月のベルリン・フィルとの公演にも、たった3日間の予定でマドリードを訪れてくれる。こうして、私の夫としてのフアンさん、パートナーとしてのカニサレスを大事にしてくれる父に、とても感謝している。
来月には今働いている会社を辞め、新しい自分の会社を起こすそうだ。なんというバイタリティー!私たちも負けていられない。私にとって父の背中は、いつまでも広く、大きく、追い越せない目標だ。
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